千原城

別名− 付近住所 大阪府泉大津市千原町1 現在−
碑・案内板アリ


玉井行家

四十九山は、千原城主玉井壱岐守行家(源宗)とその家臣四十九名が葬られていると伝承され、「しじゅうくやま」または「しずくやま」とよばれています。玉井氏は両曽根(北曽根・南曽根)・吾孫子村の一部・森村・千原村を領した戦国時代の地侍で、玉井壱岐守行家はその最後の当主です。行家は、管領の地位をめぐり細川晴元と争った細川氏綱に属し、晴元配下と堺などで戦いましたが、いずれも敗れます。永禄4年(1561)、当時細川氏綱の居城であった高屋城が畠山氏に奪われ、行家は千原城(現泉大津市千原町)へ帰りました。天正16年(1588)行家が没した後、玉井家は絶えてしまいます。現在四十九山には四基の一石五輪塔と一体の石仏、三基の石造物が残されています。五輪塔と石仏は砂岩製のため風化により銘のほとんどは判読できませんが、中央のほこらに安置されている五輪塔については銘が判読でき、玉井行家の家老で慶長6年(1601)に没した川上宗西のものであることがわかります。その後、川上家は江戸時代の大半を通じて、千原村の庄屋を勤めました。